嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探

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原文标题:长沙走马楼呉简所见调纳入简初探


(日本 中央大学文学部)
一.问题の所在
一九九六年に湖南省长沙市走马楼にて発见された大量の三国呉の简牍(以下「走马楼呉简」(1))は、孙呉政権に関する情报の乏しさを补うものとして、かつ、后汉から西晋に至る诸制度の変化を追ううえでの格好の材料として注目されたものの、最初に公表された吏民田家莂(「田家莂」(2))と呼ばれる大型木简群が他に类例のない内容・形式をもっており、文献の欠を补うどころか接点すらないものであったために、大方の関心は急速に后退した。これに続いて明らかにされつつあるのが、主に赋税や名籍にかかるとみられる膨大な小型竹简群(3)で、ちょうど図録本の第三集が上梓されたばかりである(4)が、点数ばかり多くつかみどころがなく、今后の整理を待つ部分も多いと目される(5)ところから、刊行开始より短からぬ时日が経过しているにもかかわらず、现状では、ようやく初歩的な検讨が加えられはじめた段阶である。
かような経纬から、当初寄せられた期待の大きさに比して、呉简研究はいまひとつ盛り上がりを欠き、新しい方向性を见いだせずにいる(6)が、そんな中で近年着々と手坚い成果を积み上げているのが、伊藤敏雄・谷口建速らの米纳入简に関する一连の议论(7)である。もともと走马楼呉简には、(田家莂も含めて)赋税とかかわる内容のものが多いという特徴があり、赋税纳入简に注目が集まるのは自然な流れで、その结果として孙呉の物流システムの一端が徐々に判明しつつあることは喜ぶべきことである。しかるに、目下のところ、あくまでも徴発された赋税の「流れ」が问题とされるにとどまり、赋税纳入简にみえるさまざまな税目の制度的位置づけを具体的に把握する目処が立っていないことには、留意しておく必要がある。
走马楼呉简にあらわれる诸税のうち、公表后もっとも早い段阶から注目の対象とされてきたのが「调」である。ひとつ実例を挙げると、
入中郷嘉禾二年()布一匹三丈八尺嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年八月一日东㚘丘男子黄元付主库吏殷连受

一‐七六八五(8)
と书きなされるもので、こうした调纳入简は図録本第一集・第二集(各々『竹简壱』『竹简弐』(9))を通じて数多く认められる。汉晋间における戸调制の成立过程(10)について考えるうえで、孙呉政権は、时代をともにするという意味で重要な、戸调制を创始した曹魏とは一线を画すという意味では微妙な、位置にある。そのことを反映して、呉简の调の位置づけについては诸説あるが、いずれにしても、これまでは文献から検讨するしかなかった汉魏交替期の调の実态について把握するうえでの関键になることは间违いない。
呉简の调について最初に言及した王素・宋少华・罗新は、走马楼呉简に「上品」「中品」「下品」「下品之下」といった戸品(11)がみえるところから、これを戸调と认识した(12)が、まもなく高敏による反论を受けた(13)。高は、①走马楼呉简には「戸调」と熟した用例がない、②呉简中の「调」字は多くが动词として用いられており、「调発」「调运」の意と解すべきである、③呉简には口算・算赋の施行痕迹があり、戸调制とは両立し得ない、という三点を掲げたうえで、调を临时徴収的なものと捉えた。これに対し、王素は、人を単位とする口算・算赋と戸を単位とする戸调との并存状况が孙呉にはあったと主张し、また呉简では「调」字が「入……调布」という书式下に多く出现する以上、それは(动词「入」の目的语として)名词とみるべきだ、と唱えた(14)。
その后『竹简壱』が公刊され、それを受けて现れたのが、于振波による専论(15)である。于説の焦点は、戸调制により诸税を定制化・一本化した曹魏に対し、孙呉は制度外的で随意性の高い汉代の调を継承した、というところにある。その根拠は、①品目が布・麻・皮など多様である、②戸を単位に徴収される税目を「戸租」「戸算」などとする表现が呉简にはない、③纳入する数量が一定でない、といったところにおかれている。うち①に関しては、呉简中の獣皮纳入は布の代纳であるという中村威也の指摘(16)があり、必ずしも成り立たない可能性があるが、呉简の「调」を戸调と断ずることについては、于の言うとおり、依然问题が残るであろう。ただし、そのことに立脚しながら、曹魏に比して孙呉のほうが社会矛盾をよりいっそう増加させる倾向にあったとする于の见解の妥当性は、别に问われる必要がある。
尔来三年余、『竹简弐』が公にされて材料が大きく増加したのにもかかわらず、调についてはとりたてて议论されない状况が続き、右で绍介した诸説间の対立点も解消されぬままになっている。しかし、上述のとおり、呉简中の调の性格について明らかにすることは、呉简全体を理解するうえでも、戸调制の成立について考えるうえでも、欠くべからざる过程と思われるのであり、小型竹简の公表が半ばにも达していない现段阶で结论を急ぐことはできぬにせよ、『竹简壱』の时点で止まっている知见を一歩进めておくことには、一定の意义を认めうるであろう。そのための情报整理を试みたものが本稿である。
なお、図録本第三集(『竹简参』)は、本稿执笔(二〇〇八年一月)とほぼ同时に出版されたものであることから、その内容を参照・活用できていない点、あらかじめ断っておく。
二.调纳入简とその书式
走马楼呉简中の纳入简の书式については、中村威也・伊藤敏雄による形式分类がある(17)。中村の獣皮纳入简の分类によれば、
Ⅰ式:入+郷名+丘名+人名+年+皮种と枚数嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探年月日+烝弁+付库吏+人名+受
Ⅱ式:入+郷名+皮种と枚数嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探年月日+丘名+人名+付库吏+(人名+受)
に分けられるという。Ⅱ式の末尾が( )に入っているのは、中村论文が着された当时、该当する獣皮纳入简のすべてにおいてこの部分が断简になっていたからであるが、『竹简弐』には、
入广成郷调麂皮一鹿皮四合五枚嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年八月十一日掾黄客付库吏()()()

二‐八九〇二
という类例があり、后半の丘名の部分が省略されているものの、中村の推测どおりの结ばれかたをしていたことが现在ではわかっている。また伊藤敏雄によれば、米纳入简は、
A形式:「入」、郷名、纳入する米の种类、米の数量、〈「冑毕」または「僦毕」「冑米毕」〉、「嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探」、年月日、丘名、〈身分〉、姓名、「(ママ)」、「邸阁」姓名(署名)、「付」、「仓吏(または三州仓吏)」姓名(署名)、「受」(自署か)
B形式:「入」、身分、姓名、纳入する米の种类、米の数量、年月日、「関」、「邸阁」姓名、付、「仓吏」姓名、「受」
D形式:嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探、米の种类、米の数量、〈「冑毕」(または「冑米毕」)〉、「嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探」、年月日、丘名、〈身分〉、姓名、「付」、「仓吏(または三州仓吏)」姓名(署名)、「受」、〈中〉
の三种に主に分类できるという(〈 〉は欠ける场合があることを示す)(18)。若干の相违はあるものの、Ⅰ式とD形式、Ⅱ式とA形式はそれぞれ类似しており、文书の性格はともかく、书式に関する限りは、共通性を认めてもよさそうである。一方、B形式に该当する獣皮纳入简は存在していない。
では、调纳入简についてはどうであろうか。
(1)入桑郷嘉禾二年所调布一匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年八月廿六日何丘大女许贝付库吏殷连受

一‐七八〇〇
(2)入都郷嘉禾二年调布一匹三丈八尺嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年七月十三日敖中丘大男李赤付库吏殷连受        二‐五四九七
(3)入模郷氐下丘大男唐秃嘉禾二年调二匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年十一月□日付库吏殷 嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?

一‐七四九三
(4)入都郷横溪丘男子张□调布四匹三丈九尺嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年十月十二日烝弁付主库吏殷连受

一‐八一九五
さしあたって细部については措き、大まかにまとめれば、(1)(2)は、
入+郷名+年度+调+品目+数量嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探年月日+丘名+身分+姓名+付库吏殷连受
であり、(3)(4)は、
入+郷名+丘名+身分+姓名+年度+调+品目+数量嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探年月日+烝弁+付库吏殷连受
である(ゴシック体はその表现自体がみえることを、それ以外は该当する任意の文言が入ることを示す)。仮に、前者を书式甲、后者を书式乙と名づけるとして、书式甲は中村のⅡ式に、书式乙はⅠ式に、近いことがわかるだろう。『竹简壱』『竹简弐』をとおして、书式の判别がつく调纳入简は三三九ある(19)が、うち书式甲が三一一、书式乙が二八で、いまのところ圧倒的に书式甲が多い。また、伊藤のB形式に该当するものは存在していない。
両书式の主たる相违は、①纳入者と思われる姓名が嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探の后ろにくるか前にくるか、②「烝弁」という人物の出现の有无、にある。うち②については、中村威也が、Ⅰ式獣皮纳入简に関する考察の中で、米纳入简における「邸阁董基」との関连性を指摘している。
入西郷嘉禾二年税米三斛冑毕嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年十月廿六日上俗丘男子朱旻关()()()()付三州仓吏郑黒受    一‐三三四二
中村の説明によると、この「邸阁董基」が纳入者と仓吏との间を媒介している(20)のと同様、烝弁も纳入者と库吏との间に介在していた者だという。その际、中村は、吏とおぼしき董基の场合は名の「基」だけが自署であるのに対して、「烝弁」は姓名ともに自署であるらしいことから、烝弁は庶民であり、Ⅰ式獣皮纳入简は上段に记された者の獣皮を烝弁がとりまとめて库吏に纳入したか、烝弁が责任を持って库吏へ纳入したことを记したものである、と结论した(21)。调纳入简についても适用しうる、正鹄を射た见解と思われる。なお(3)の一‐七四九三は、釈文の上では「烝弁」を欠いているが、写真版を见ると、年月日と「付库吏殷连受」の间に数文字分の空白があることから、何らかの理由で烝弁が署名しなかったものであり、书式の相违や部分的省略ではないとみてよい。
これを前提として①を解釈するなら、书式甲は介在者が不在のとき、すなわち纳入者が直接库吏に纳入した际に作られたものと考えられる。平たく言えば、书式甲では「入」の主语が纳入者、书式乙では烝弁、ということになる。こうした相违が生ずる理由は不明であるが、少なくとも、纳入者の属性に原因があるわけではない。なぜなら、
入中郷嘉禾二年调布一匹三丈八尺嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年八月七日绪()()大男()()付库吏殷连受

二‐五四九六
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探□□()()()()禾二年调布四匹三丈四尺嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年十月八日烝弁嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探? 二‐六〇四六
からわかるとおり(22)、同一人物とみられる者の调纳入简が书式甲と书式乙の両方にまたがって出现するケースが存在するからである。前者のほうが日付が早く、后者のほうが纳入数量が多いため、后者は分纳したものを集めたデータとも考えられる(23)が、これだけでは断定できない。
何しろ条件が调わないので、両书式の机能の相违にはこれ以上踏み込めないが、それにしても课题は山积している。节を改め、まずは烝弁ともかかわる纳入主体の问题について検讨していくことにしよう。
三.纳入主体について
调纳入简のひとつの特徴として、纳入者の身分が田家莂よりも详しい点が挙げられる。田家莂においては、県・郡・州の吏・卒、ならびに特殊な身分である士・复民を除くと、男子・大女の二种类しか存在しないが、调纳入简には大男(一‐一二九五ほか)・男子(一‐四六六一ほか)・大女(一‐七八〇〇)といったありふれた身分呼称や、郷吏(一‐五一二〇・二‐六九〇七)・県吏(二‐三九五九・二‐五五〇七)・郡吏(二‐五九二一)・吏(一‐六八三四・一‐六九二六)・掾(二‐八九〇二)とみえる吏たちのほか、「民」「伍」「力田」の存在を见いだすことができる。
入广成郷周陵丘()单□二年调布四匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年十一月六嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?   一‐六八八一
入广成郷调杋皮一枚嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年八月十三日弹浭丘()()李名付库吏嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探? 一‐八三六八
入□[郷]二年调布七匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年[八]月十九日上利(?)丘()()嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?二‐四五五〇
入都郷二年新调布一匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年八月廿日因疒丘()()呉?()黄汉付库吏殷连受

二‐五三一八
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探[年]新调布一匹三丈八尺嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年八月廿四日因疒丘()()嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探()□如付库吏殷连受        二‐五四七一
入南郷嘉禾二年调布七匹三丈九尺嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年七月廿五日伻丘()()李帛付库吏殷连受

二‐五五三七
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探[()]()潘明二年所调嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探         二‐六三一一
このうち「民」については、
集凡起五月一日讫十五日()入嘉禾二年布合廿匹三丈六尺   一‐八一九七
入钱毕()自送牒还县不得持还郷典田吏及帅    二‐二九四三背
入西郷新还()入黄龙三年限米六斛嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾元年十二月□日郭溲[丘]□□关邸阁□嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?

二‐八九〇六
のように、汎称として用いられるのが通例であるが、纳入简において个人に冠する身分呼称とされた例はごく少数にとどまる。名籍には、
()胡文年六十三腹心病            一‐七六七一
()男子王娄年七十八             二‐二一二一
()大女黄情年六十四 嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探          二‐二四二九
と、「民」を単用するケースと「男子」「大女」と连用するケースとがあるが、そこに使い分けがあったのか、またそれが调纳入简の「民」と関係するのかどうかは、现时点では不明である。ただ、先にみた二‐五三一八・二‐五四七一において、「歳伍」とセットで「民」が出现している(24)ことは、「伍」について考えるうえでの参考となる。
「伍」は、『竹简壱』では四例(八一二二・八三六八・八五四六・八五八六)に限られ、またいずれも「月伍」であり、身分呼称とみなされることもなく看过されてきた。しかし、『竹简弐』には一七例も登场し、月伍と対照可能な「歳伍」なる名称も现れたことによって、これを特别视せざるを得なくなったのである。伍といえば、『続汉书』志二八百官志五に、
里に里魁有り、民に什伍有り、善恶 以て告ぐ。本注に曰はく、「里魁は一里百家を掌る。什は十家を主り、伍は五家を主り、以て相ひ检察す。民に善事・恶事有れば、以て监官に告ぐ」と。
とあるのが想起される(25)が、これが呉简中の「伍」と重なるものかどうか速断はできない。ただ、歳伍や月伍の役割の少なくとも一部は、次の诸例にみえるとおり、个别の民を「主」ることであったようではある。
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探□□[尾]()()娄樵()()阿洞南嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?(26)   一‐八一二二
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探伍娄尾()()娄樵()()嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探 ? 一‐八五八六
「所主」は「主る所」とも「主とする所」とも読めるので、前者に解する必然性はないともいえるが、走马楼呉简においては、
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探□□()()桐丘民嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?    一‐七〇五七
典田[掾]黄欣嘉禾五年()()□□嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?    二‐三一六七
のように、担当ないし管理の対象を示す文言と考えてよい。歳伍・月伍が民を担当・管理していたのであれば、先に指摘した「歳伍」と「民」が同时に出现する调纳入简においては、その「民」が歳伍に担当・管理されていることが示されているのであろう(27)。そうした担当・管理対象の规模については、
()()卒□()()()八十八戸(28)     二‐五一九
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探□()()番祝()()()五十五戸     二‐六一九
・右()()谢胥()()()七十五戸 嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探     二‐一一〇五
とみえている。この「领」が「主」と同じ概念を示すとするなら(29)、歳伍についていえば、その行う「吏民」の担当・管理は五戸を単位としたものとは限らないらしい。后二例は五の倍数だが、二‐五一九の八八戸の场合は五で割り切れないからである。ほかに、
()()()()()      二‐五二五
()()()()()下品  ▼     二‐五八〇
といった例もあるが、これらは歳伍でも月伍でもなく「歳月伍」で、とくに二‐五八〇は「领」字が「歳月伍」の前にあることから、「伍」が「五戸」を「领」した事例ではなく、何某かの上位者が「领」する「歳(伍および)月伍」とかかわる多数の戸のうち五戸が「下品」に分类されることを述べたものと解釈できる。なお、歳伍・月伍が吏民を担当・管理するだけでなく、上位者――恐らくは公権力――による担当・管理を受ける対象でもあったことは、
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探□嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探()()()()朱政龚□嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?     二‐六五八五
という表现からも推测されるとおりである。
歳伍・月伍による吏民の「担当・管理」の具体的内容は详らかでないものの、二‐五三一八・二‐五四七一において同一の歳伍がそれぞれ别の「民」の调纳入にかかわっているところから推すと、少なくとも歳伍の场合には、担当・管理下にある民戸からの赋税纳入に関与する资格を有していたとみることができそうである(30)。もっとも、それらの简にみえる歳伍の姓名は写真版でみる限り自署ではないらしく、また、
入郷上俗丘()()嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探入□嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探     二‐四五八一
のように歳伍は书式乙の前段にも现れるので、その「赋税纳入への関与」のありかたは、(书式乙の后段にしか现れず、かつ自署される)烝弁の场合とは异なるとみるべきである。二‐五三一八と二‐五四七一とでは纳入日が异なるため、歳伍が纳入のとりまとめ役であったのかどうかも、いまのところは判断できない。唯一わかることは、烝弁が不特定多数の丘からの纳入を媒介しており、丘内部の社会との直接的な接点を有さないらしいのに対し、歳伍・月伍の所属は丘名によって示されていることから、彼らは丘を単位におかれた可能性が高い、というところまでである。ただし、田家莂から判断するに、八八戸とか七五戸とかいった多数の戸を拥する丘は存在しないので、「丘を単位に」といっても、それはすべての丘ごとに一人というわけではなく、ときに複数丘を管辖するものであったのかもしれない。别稿(31)で明らかにしたとおり、丘内には当该丘に居住実态をもたない(=别丘に居住する)民戸の耕地が混在する场合があり、结果として、各丘に所在する耕地は必ずしも常に同一郷に属するわけではなく、耕作者の所属に応じて管辖主体の郷を异にすることもあった。が、调は耕地に対する赋课ではないと思われるので、丘内に居住実态をもつ民戸を一括して一単位とすることができたのであろう(32)。
右を要するに、歳伍・月伍は、五戸を担当・管理の単位とするものではなく、告姦を掌っていたかどうかも定かではない。池田雄一は、汉代の什伍の长について、①地域の事情に通じたものが选ばれる、②自然村の取り缔まりを目的としている、③长吏によって置廃される非常置のものである、の三点に基づき、必ずしも什伍の単位におかれるわけではなかったとする(33)が、歳伍・月伍が(伍そのものではなく)身分呼称であり、丘を単位として置かれ、上位者に「领」されている、といったことに鉴みれば、それらは池田のいう「什伍の长」に近いと考えてよかろう。「歳」「月」が「伍」の前に付されるのは、歳伍が年単位、月伍が月単位で吏民を担当・管理するものであったからと思われるが、そうした时限性は、これらのものが常置でなかったこととかかわるのかもしれない。
してみると、歳伍・月伍は、いわば在地社会と公権力との结节点に位置していたわけであるが、それと似通った存在のひとつが力田であった。
入都郷嘉禾元年税米廿三斛嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾元年十一月十日员东丘()()彭萌()黄□嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?

二‐一二八九
入都郷嘉禾元年税米十七斛四斗嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾元年正月十七日坉中丘()()樊建()潘洲关邸阁郭据付仓吏黄讳史番虑  二‐二七二六
歳伍の场合と同様、「民」に先立って力田の姓名が记されている。それが自署でない点も、前出の二‐六三一一のように书式乙の前段に出现する点も、歳伍と同じである。周知のごとく、力田は三老・孝悌と并んで汉代史料に散见され、『后汉书』纪二明帝纪建武中元二[五七]年条李贤注では、
三老・孝悌・力田、三者は皆な郷官の名なり。三老は高帝置き、孝悌・力田は高后置き、郷里を劝导し风化を助成する所以なり。
と説明されているが、孙呉では赋税纳入への関与も役割の一つであったことになる。さらに、调纳入简にはみえないが、
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年布二匹三丈九尺嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年八月廿三日曼溲()()黄[谊]付库吏殷连受

二‐五四五八
とみえる「丘魁」も、类似した性格のものと目される。魁については前掲『続汉书』志二八百官志五にみえているが、それはあくまでも「魁」であった。走马楼呉简中にも、
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探□()鬿()周鹊()嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探(34)    二‐二八九〇
という例があり、里魁の姓名の直后に「领」と记されている(=そのあとに対象となる戸への言及があるらしい)ところから、やはり民ないし吏民を担当・管理していたことがわかる。里と丘との関係(35)が依然明らかでない以上、丘魁を里魁と等置することにも慎重であるべきではあるが、何より当时の丘に「魁」がおかれていた点には注意しなくてはならないし、両者の职掌に大幅な悬隔がないのならば、丘魁が民を担当・管理していた公算も大きいことになる。
さて、いささかこみ入ったが、调の纳入主体の身分呼称の示すところについては概ね判明した。ただ、すでに述べたとおり、田家莂・名籍にはここで示した身分呼称の多くが现れないのであるが、それは该当する者に関する简が见つかっていない(ないしは未公表である)からではなく、田家莂・名籍において必要とされないデータであったからだと考えられる。例を挙げると、
……()()()主          二‐一八八二
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探梦丘男子(○○)()()、佃田五町、凡廿四亩、皆二年常限。其廿亩旱不収布。定収四亩、爲米四斛、亩布二尺。其米四斛八斗、五年十二月十日付仓吏张、周栋。凡爲布八尺、准入米四斗八升、五年十二月二日付仓吏张、周栋。其旱田不収钱。其熟田亩収钱八十、凡爲钱三百廿、付库吏潘有毕。嘉禾六年二月廿日、田戸曹史张愓、赵野校。

五‐七七四(36)
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年布二匹三丈九尺嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年八月廿三日曼溲()()()[()]付库吏殷连受

二‐五四五八(再掲)
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探郭渚丘()()()()、佃田三町、凡廿三亩、皆二年常限。其廿亩旱不收、亩收布六寸六分。定收三亩、爲米三斛六斗。亩收布二尺。其米三斛六斗、四年十二月七日付仓吏李金。凡爲布三丈九尺二寸、四年十二月十日付库吏番有。其旱田亩收钱卅七、其熟田亩收钱七十。凡爲钱一千七百、四年十二月十日付库吏潘有毕。嘉禾五年三月、田戸曹史赵野、张愓、陈通校。           四‐三四二
のように、丘(里)魁と同姓同名の人物の田家莂において、身分呼称が「男子」とされているからである。无论、同姓同名であるというだけで一〇〇パーセント同一人物とは断定できないし、年度も异なるので、途中で身分に変更があった可能性も残りはするが、それにしても见逃せない问题である。少なくとも、二‐五四五八と四‐三四二で所属丘が异なっている点については、夙に森本淳が指摘しているとおり、田家莂において同一人物が别丘に出现する事例のあること(37)から、别人と判断する材料にはあたらないといえる。だとすると、调纳入简(を含む纳入简全般)においてのみ多様な身分表记がなされることの特殊性が际立ってくるが、しかし、理由はよくわからない。田家莂は耕地およびその作柄に応じて课税额が决定されるが、调の场合は算出の根拠が异なりそうなので、そのあたりが関係しているとも考えられるものの、想定の域を出ない。详细は向后に委ねるしかなさそうである。
こうした身分の问题のほかに、纳入主体とかかわって触れておかねばならないのは、歳伍と「民」のような担当・管理の関係が疑われるもののほかにも、连名で调纳入が行われた事例があることである。
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探何丘男子()()()()嘉禾二年调布一[匹] 嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探        一‐六九三三
入南郷嘉二年所调布一匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年七月廿九日语中丘男子()()()()付库吏殷连受

二‐五五〇〇
右は一部にすぎず、こうした事例はほかにもいくつかある。前者が书式乙、后者が书式甲であることからわかるとおり、书式の如何とは无関係で、纳入日・纳入者の身分にも特定の倾向はない。こうした纳入方法がとられ得たのは、孙呉の调が戸単位に赋课されるものではなく、一定範囲の戸全体に割り振られた総额を満たすよう纳める形のものであったからではなかろうか。书式甲において前段に丘名のみが记されることや、丘を単位としておかれていたらしい歳伍が「民」の调纳入に関与することを考虑するならば、その「一定範囲」は単一ないし複数の丘を単位として设定されたものであると考えられる。数戸ごとにしか织机のなかった当时にあっては、出机による布帛生産が恒常的であったとされ(38)、そうした背景が戸単位の赋课を容易ならざるものとしていたのかもしれない。前节の末尾でみた绪中丘の朱典のように、同一人物が同一年度に複数回に亘って调を纳入する事例が発生することも、如上の诸事情を反映したものであろう。
无论、すでに言及したように、走马楼呉简中には四种の戸品(上品・中品・下品・下品之下)(39)がみえており、うち「下品之下」には调が课されなかったことも、
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探□女戸()()()()()()() 嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探      一‐四二三三
から明らかなので、孙呉において家産评価がなされていたことは确かであるし、それが何らかの形で调とかかわっていたことも疑いないが、累进课税が存在したという确証は目下のところ得られていない。田家莂による课税では、各戸の耕地面积と作柄に応じて赋课额が决定されており、戸品に基づく累进课税よりもさらに烦雑な手続きがふまれているが、田家莂に複数名を併记したものは存在しておらず、连名で纳入されることもある调と同列に论じられるか疑问である。孙呉の口算・算赋についても现状では不明点が多く、それらをはじめとした孙呉の税役体系全体を考える中で、戸品の问题は改めて検讨されねばならない。よって、戸品がみえるということだけを理由に戸调制の存在を见いだすことには、いましばらく慎重でありたいと思う。
以上、烦雑になったが、纳入主体とそれに関连する问题について、指摘すべきことはすべて述べおえた。さらに歩を进めよう。
四.赋课・运用の主体
孙呉政権下における调が戸调制の成立过程の中で到达していた段阶について论ずるためには、于振波が试みたように、その调が定制化されたものなのか制度外的赋课なのかを弁别する必要がある。于は结局、状况証拠を挙げるにとどまったが、『竹简壱』『竹简弐』を详しくみると、调を赋课する主体について记されたものが、わずか二例ながら存在している。
[入]□郷嘉禾二年()()()()二匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年十月三日……嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?    一‐六九四七
入平郷嘉禾二年()()()()二匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年九嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?    二‐六四二〇
「吏(官)の调する所の布」という表现は、この「调」が明らかに动词であることを示しており(40)、かつ、主语は「吏」「官」にほかならない(41)。これらはいずれも断简であり、后段に纳入者が示されているとは限らないが、仮に调纳入简でないとしても、调という赋课が制度的裏づけを有するものであれば、吏や官を主语に立てた表现はそもそも现れないのではないかと疑いたくはなる。
その一方で、このような事例もある。
()桑郷二年新调布一匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年九月一日柤下丘嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?    二‐五七〇九
()中郷二年调布二匹三丈八尺嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?     二‐六一五六
后者はともかく、前者は后段に丘が记されており、これに続いて个人名が挙がっていたことはほぼ确かである。しかも、体裁は书式甲をとっており、ゆえに、「出」の主语は后段にみえる个人――おそらくは民戸――であると考えられる。とするなら、この例においては、ある个人が调された布の支出を受けていた、ということになりはしないか。制度化されたものにせよ、临时的なものであるにせよ、それが一方的な赋课であるなら、一个人がそれを改めて出すなどということはあり得ない。このことは、走马楼呉简中にみえる调について考えるうえで、きわめて重大な问题であると言わねばならないだろう。これまで、调関连简はすべて纳入简として考えられてきたが、『竹简弐』において右の二例が出现したことで、もはやそれは许されなくなったのである。
个人による「出」がいかようにして行われ、なぜそれが可能であったのか、现时点では充分に明らかにし得ない。ただ、参考になるのは、
入桑郷嘉禾二年所调()()()一匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年七月十三日东平丘男子殷柱付库吏殷连受

二‐五三六七
[入]□郷嘉禾二年所调()[()]嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?     二‐五九四五
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探[郷]嘉禾二年所调()()()三丈九尺嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?     二‐五九九八
とみえる「冬赐布」が调の品目として挙がっていることである。冬赐布の存在は『竹简壱』においても知られていたが、これが调の対象に含まれていたことは、『竹简弐』ではじめて判明した。これをいかなる性质のものと理解するかであるが、『蜀志』巻三六赵云伝の裴注に、
『云别传』に曰はく、「(诸葛)亮曰はく、『街亭の军 退きて、兵将 复た相ひ(をさ)めざりき。箕谷の军退きて、兵将 初めて相ひ失せざるは、何の故ぞ』と。(邓)芝 答へて曰はく、『(赵)云 身 自ら(しりへ)を断てば、军资の什物 略ぼ弃つる所无く、兵将 缘つて相ひ失すること无きなり』と。云の军资に余绢有れば、亮 将士に分赐せしむ。云 曰はく、『军事に利无かりしに、何为れぞ赐有る。其の物 请ふ 悉く赤岸の府库に入れ、十月を须つて冬赐と为せ』と。亮 大いに之れを善しとす」と。
とあるように、「冬赐」とは冬期のはじめに颁布する布帛を指すようである。走马楼呉简にみえる冬赐布を同様のものとしてよいなら、これは冬期の颁布に备えてあらかじめ备蓄したか、あるいはいったん颁布を受けたものを返却したもの、ということにはならないだろうか(42)。とすれば、冬赐布については、単なる収夺でなく、一定の目的をもって备蓄・颁布されたものと考えるべきなのであり、さらに先ほどみた个人による「出」の事例もこれと类似した物资のやりとりと考えるなら、疑问は氷解する。それが行われる机会については、例えば、
入乐郷()()()()三年私学()()准米四斛()()嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年九月廿九日()()()()嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?

一‐五一九〇
にみえるような、个人(この场合は领山丘の谢某)からの求めに応じた米の贷与などが该当するものと思われる。
要するに、走马楼呉简にみえる调(のすべてとはいわぬまでも、少なくとも一部)は、それを制度化された税目あるいは临时的な调発・调达と考えるより、民への颁布・贷与のために物资をプールする措置、もっと言えば、民间における物资の余剰・欠乏を调整するためのものであったとみるほうがよさそうなのである。汉代において、郡国间の财政の不均衡を调整する「调均」という措置が存在していたことが知られている(43)が、そのミクロ版とでもいうべきであろうか。その际、调整の主体となったのは、
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探四匹一丈六尺匹直三千六百布付()()()()()领如解尽力绞促    一‐三七三二
とあるとおり、调の出纳を行っている库吏殷连が県吏であることから、県であると考えてよいだろう。
以上に大过なければ、孙呉における调とは、曹魏・西晋の戸调制のような制度的に整理された段阶に达する以前の、临时性の强い汉代的な调の延长上にあるが、それは必ずしも収夺だけを目的としたものではなく、场合によっては调発した物资を県が民间に还流させて不均衡を调整するようなことも行われたらしいのであり、であってみれば、孙呉が曹魏に比して民生の安定を軽视していたとは一概に结论できまい。调を切り口にして问われるべきは、こうした孙呉政権の「调」の运用が时代的要请に适切に沿っていたかどうかなのであり、赋课の軽重や定制化の有无そのものではないのではなかろうか。
五.结言
冒头で示唆したとおり、依然として不明点が多く、今后の情报増加も期待されることから、文字通りの情报整理にとどまったが、得られたところをひとまずまとめるならば、以下のようになる。
①调纳入简の书式は二通りあり、それぞれ主语が纳入者(书式甲)・烝弁(书式乙)となるが、烝弁の役割や両书式の机能的相违は不明である。
②孙呉の调は単一ないし複数の丘を単位に赋课され、その徴収にあたっては、歳伍・月伍など丘内部の社会に影响力をもつ立场の者が関与した形迹がある。
③孙呉の调は定制化したものではなかったようであるが、単なる临时的调発であったわけでもなく、いったん调発された物资が県レベルで民间に还流させられることさえあった。
④ゆえに、调赋课の方法・内容だけから、孙呉が曹魏よりも社会矛盾を増大させる倾向にあったとは言えない。
しかし、あくまでもこれは、现段阶での见通しにすぎない。何しろ、纳入简全体の体系的な分析・検讨はこれまで试みられたことがなく、调纳入简と「调」字を有さない纳入简との间にいかなる差异があるのか、确たることは言えない状况にある。本稿では両者を厳密に区别せず、场面によっては双方を通用させたが、その手法に误りがなかったと、自信をもって言い切ることには踌躇を覚える。また、纳入品目の具体的内容――そもそもこの「布」がいかなるものであるかについても、充分な议论はなされてきていない――や纳入量のことには踏み込めなかったし、调の临时性ないし定制化を考えるうえで极めて重要と思われる「二年新调」という频出の文言については、问题点の指摘すらできなかった。すべては今后の课题である。

(1)概要については、长沙市文物工作队・长沙市文物考古研究所「长沙走马楼J22発掘简报」(『文物』一九九九‐五)、胡平生・李天虹『长江流域出土简牍与研究』(湖北教育出版社、二〇〇四年)第七章第四节「长沙走马楼三国呉简」などを参照。
(2)走马楼简牍整理组[编着]『长沙走马楼三国呉简 嘉禾吏民田家莂』上・下(文物出版社、一九九九年)。
(3)走马楼简牍整理组[编着]『长沙走马楼三国呉简 竹简[壱]』上・中・下(文物出版社、二〇〇三年)、『长沙走马楼三国呉简 竹简[弐]』上・中・下(文物出版社、二〇〇六年)。
(4)走马楼简牍整理组[编着]『长沙走马楼三国呉简 竹简[参]』上・中・下(文物出版社、二〇〇八年)。
(5)本稿执笔时点で、第八集までが予定されているとの情报がある。详しくは拙稿「『长沙走马楼三国呉简 竹简[弐]』刊行によせて」(『中国出土资料学会会报』三五、二〇〇七年)を参照。
(6)现在の呉简研究が陥っている困难については、罗新(森本淳[訳])「近年における北京呉简研讨班の主要成果について」(『长沙呉简研究报告 第三集』长沙呉简研究会、二〇〇七年、所収)が率直に告白している。
(7)伊藤敏雄①「长沙走马楼简牍中の邸阁・三州仓・州中仓について」(『九州大学东洋史论集』三一、二〇〇三年)、②「长沙走马楼呉简中の「邸阁」再検讨―米纳入简の书式と併せて―」(太田幸男・多田狷介[编]『中国前近代史论集』汲古书院、二〇〇七年、所収)、谷口建速①「长沙走马楼呉简よりみる孙呉政権の穀物搬出システム」(『中国出土资料研究』一〇、二〇〇六年)、②「长沙走马楼呉简における穀物関係簿初探」(『民衆史研究』七二、二〇〇六年)など。
(8)简番号は前掲注(3)の各図録本に従う。引用にあたって、第一集・第二集を区别するため、简番号の前にそれぞれ「一」「二」を补ってある。釈文も基本的には図録本に従うが、写真版をもとに改めた箇所もあり、うちとくに必要のあるものについては、その都度注を立てて説明を加えた。
(9)前掲注(3)。
(10)戸调制の成立に関しては、唐长孺「魏晋戸调制及其演変」(『魏晋南北朝史论丛』三联书店、一九五五年、所収。『唐长孺文存』上海古籍出版社、二〇〇六年、再録)、渡辺信一郎「戸调制の成立―赋敛から戸调へ―」(『东洋史研究』六〇‐三、二〇〇〇年)などを参照のこと。
(11)走马楼呉简にみえる戸品については、张栄强「呉简中的“戸品”问题」(『呉简研究』第一辑、崇文书局、二〇〇四年、所収)・于振波『走马楼呉简初探』(文津出版社、二〇〇四年)九六~一〇〇页に详しい。
(12)王素・宋少华・罗新「长沙走马楼简牍整理的新収穫」(『文物』一九九九‐五)。
(13)高敏「読长沙走马楼简牍札记之一」(『郑州大学学报』二〇〇〇‐三)。
(14)王素「呉简所见“调”応是“戸调”」(『歴史研究』二〇〇一‐四)。
(15)前掲注(11)于书、巻四「汉调与呉调」。
(16)中村威也「獣皮纳入简から见た长沙の环境」(『长沙呉简研究报告 第二集』长沙呉简研究会、二〇〇四年、所収)六〇页。
(17)前掲注(16)中村论文五四~五六页、ならびに前掲注(7)伊藤论文②三〇八~三一二页。
(18)前掲注(7)伊藤论文②では、この他に「C形式」に分类しうる书式が存在することを指摘しているが、集计简であると考えられるため、ここでは割爱する。
(19)実际には、后述するように、纳入简だけでなく支出简も含まれている。両者を分けてカウントしていないのは、简冒头の欠损のため、纳入简と支出简の区别がすべてについてはつけられないためである。
(20)前掲注(7)伊藤论文①によれば、「邸阁」の直前の「关」は动词に読まれる(「邸阁董基に关す」)べきものである。
(21)前掲注(16)中村论文五五页。
(22)『竹简弐』釈文では二‐五四九六の纳入者の姓名を「先典」とするが、写真版では「先」字の「儿」の部分が「八」のように书かれ、上の部分の縦画が下に出ているようにも见える。次の二‐六〇四六では、简の上部が縦にささくれたように裂けており、縦画の有无が判断できない状态である。また、「中丘」の上の「□」の部分について、左侧に「糸」の下部のようなものが见えている。以上から、①二‐五四九六の「先」は「朱」、②二‐六〇四六の丘名は「绪中丘」、③「典」の下は「禾」(「嘉」字の脱误か。『竹简弐』釈文は「元」)、と判断した。
(23)朱典にかかわるものとして、これらのほかにも、
?嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探[大]男朱典二年布二匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二[年] 嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?     一‐四五六三
?嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探月八日绪中丘男子朱典付库吏殷连受     二‐五四八四
という纳入简があり、これらも分纳分に该当する可能性がある。ただ、いずれも「调」とは记されておらず、仮に獣皮にみられる口算の代纳(前掲注(16)中村论文五八~五九页参照)に準ずるものだとすると、调纳入にかかるものとは言えまい。なお、同一人物が単年度内に调を複数回纳入した事例としては、ほかに、
入广成郷嘉禾二年调布一匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年十一月十三日()()()()()付库吏殷连受

一‐八二八八
入广成郷嘉禾二年所调布一匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年八月十五日()()()男子()()付库吏殷连受

二‐五五三八
というものもある。
(24)「歳伍」と「民」が并存する事例には、ほかにもう一例、
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探[()()]呉嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探()嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?          二‐五七三三
というものがある。断简であって纳入简かどうかも定かでないが、いずれにせよ、本文中で掲げた二例と同じく、「歳伍呉嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探」と「民」との组み合わせである。それが偶然によるものかどうかは、今后の検讨を俟たねばならない。
(25)汉代の伍制については多くの研究蓄积があり、枚挙に遑がないが、さしあたって、池田雄一「中国古代の伍制」(『中央大学文学部纪要』史学科一九、一九七四年、初出。改题后、『中国古代の聚落と地方行政』汲古书院、二〇〇二年、所収)を参照。
(26)「月伍」、『竹简壱』は「□五」と釈す。写真版を见ると、この二字の左半が消えかかっているが、それでも「月」は判読でき、「五」も左に寄っていて、もともと「伍」であった公算が大きい(人偏らしきものもかろうじて见える)。加えて、一‐八五八六の月伍娄樵と同姓同名であることを勘案し、釈文を改めた。
(27)のみならず、複数の「伍」が併记される场合もある。
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探□□()烝开()()黄□□主𣾷丘嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?       一‐八五四六
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探()娄尾()()娄樵所主殷 嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探         一‐八五八六(再掲)
もっとも、いずれも断简であって、前者が歳伍なのか月伍なのかも不明であり、両者间に担当・管理の関係があったのかどうかも不明である。
(28)「歳伍」の次が「卒」となっており、兵制としての伍を连想すると「(歳)伍卒」とも読めそうに思えるが、他の例から推して、この「卒」は姓とみるべきであろう。别字(「率」)の可能性もあるものの、写真版からは判然としない。
(29)「领」が担当・管理の意であるらしいことは、
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探□日讫卅日()[()]()嘉禾二年调布 嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探      二‐六四七一
からもうかがえる。ただし、この字义の「主」が「所主」と书かれるのに対して、「领」の场合は単独でも用いられるという相违もある。なお「所领」は、
()仓吏黄讳潘虑()()黄龙三年税呉平斛()六十三斛三斗六升为稟斛()  一‐一九〇一
のような米支出简に频出し、また、
入[仓吏]黄讳番虑谨列()()()八月旦簿       一‐二三五九
とあるごとく、米簿に関しても用いられている。
(30)このことを歳伍に限定して述べたのは、「月伍」と「民」が同时に现れるケースがないだけでなく、月伍が民を「领」したことを明确に述べた事例が存在しないことにもよる。本文で引いた一‐八五八六のように、月伍が民を「主」ったと记したものは存在するので、月伍が何らかの形である範囲の民を担当・管理していたことは确かであるが、それが「领」とイコールなのか、その中に赋税徴収への関与が含まれるのか、といったことを详细に论ずるための材料は不足している。単に忆测だけなら、伍は年间を通じた担当・管理を行うので、赋课から纳入まで一定のタイムスパンが见込まれる赋税纳入に関与しうるが、伍にそれはできない、とも言えてしまうが、现时点でそれを証拠立てることはできない。他日を期したい。
(31)拙稿「小型竹简と旱败率よりみた「丘」」(前掲注(16)书、所収)。
(32)もしそうでないとすると、田家莂において複数丘に同一人物が出现すること(后述)の説明がつかなくなる。しかし、実のところ、调纳入简においても同一人物らしき者が複数丘に现れるケースが存在するのである。
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探禾二年[新]调布一匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年八月十六日()()()()()()付库吏殷嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探? 二‐三九五九
入桑郷嘉禾二年新调布一匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年七月十七日()()()()()()付库吏殷嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探 二‐五五〇七
これを田家莂の场合と同様に考えてよいとするなら、孙呉の调が耕地に课されていた可能性や、田家莂に基づく赋课と调との有机的连関を想定しなくてはならなくなるが、そのためにはいましばらく検讨を重ねる必要がある。
(33)池田雄一「汉代の地方少吏」(『中央大学文学部纪要』史学科一七、一九七二年、初出。改题后、前掲注(25)池田书、所収)五九三~五九六页。
(34)「鬿」、『竹简弐』釈文に従い「魁」の意と解す。
(35)この问题に関する论考は多いが、最新の、かつ先行研究をよく网罗したものとして、侯旭东「长沙走马楼三国呉简“里”“丘”関係再研究」(『魏晋南北朝隋唐史资料』二三、二〇〇六‐一二)を挙げておく。
関连して、丘を基準として书かれる调纳入简の中にも里を记したものが存在している点、指摘しておかねばならない。
入南郷宜阳()调布一匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾元年九月十四日大男□嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?      一‐一二九五
[入]南郷宜阳()元年[调布] 嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探?     二‐三九三九
ただしいずれも「南郷宜阳里」で、他の里は现れない。
(36)田家莂の简番号・釈文(句読点を含む)は、前掲注(2)书に従う。
(37)森本淳「嘉禾吏民田家莂にみえる同姓同名に関する一考察」(『嘉禾吏民田家莂研究―长沙呉简研究报告・第一集―』长沙呉简研究会、二〇〇一年、所収)。
(38)日野开三郎『唐代先进地帯の荘园』(自费出版、一九八六年)二四八~二四九页、野中敬「魏晋戸调成立攷」(『早稲田大学大学院文学研究科纪要』别册一四[哲学・史学编]、一九八七年)一九六页。このことは、獣皮による布の代纳が行われた一因である可能性もある。
(39)走马楼呉简中の戸品制が(九等ではなく)「三等+等级外(=「下品之下」)」という构成であったことは、前掲注(11)张论文一九五~一九六页、于论文一〇〇页で指摘されている。
(40)単纯に品词から调の定制化の度合いをはかるようなことが许されるのならば、孙呉の调は戸调制と呼べるようなものではなかったということになるが、そもそもそのような议论のしかたが有効であるとは、わたしには思えない。名词であろうが动词であろうが、その「调」という语によって指し示される事态の内実こそが问题なのではなかろうか。
(41)このほか、
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探□付市吏潘羜()()()()廿三匹二尺     一‐八七二三
なるものもあるが、これは于振波が考証している(前掲注(11)于书九三页)とおり、関连部门が市吏を介して、调した布を売却した际のものであろう(=主语は「付」よりも前にある)。
(42)特定の季节に冬赐布のことが集中してみえるなら、いずれか一方に特定できるのであるが、调纳入简以外の纳入简には、
入模郷二年()()()一匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年()()()()()洽丘大男苏明付库吏殷连受

一‐七九四二
入模郷二年()()()二匹嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探
嘉禾-长沙走马楼呉简所见调纳入简初探嘉禾二年()()()()()()水用丘祭□付库吏殷连受

一‐八二八二
と、春期や冬期にも纳められた例があり、判然としない。
(43)渡辺信一郎「汉代の财政运営と国家的物流」(『京都府立大学学术报告』人文四一、一九八九年)一三~一五页。
【附记】本稿は、平成一九年度文部科学省科学研究费补助金(若手研究(B))「文献史料および出土文字史料よりみた汉魏交替期の国家支配と地域社会」による研究成果の一部である。
(原载『立正史学』一〇三、二〇〇八年三月刊。転载に际し误记を改めた)
(编者按: (责任编辑:admin)

原文出处:http://his.newdu.com/a/201711/05/514146.html

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